タイ料理屋にいったわよ

題の通りタイ料理屋に行きましたよ。

 

涼しい涼しいと言われる当地ながら、今年は別段涼しいわけでもなかった。寧ろ暑いとまで言われるような始末だったけれど、それでも漸く落ち着いて夜ごとに風が流れるような穏やかな夏の終わりが訪れていた。研究室の小さな窓から覗く四角い空が、少しばかり遠くなった。

 

そうは言っても昼間に気温はぐんぐん上がり、薄いスープのような汗をかきながらべとつくシャツを胸からはがして自転車にまたがった。走りだせば全身に風を受け止めて、ヤアいい気分だとゆるやかな坂道を漕ぐ。オレンジ色の木漏れ日が眩しい。構内を流れる小川には、枝垂れ柳越しに色んな人が見えた。少し照れくさそうに膝を突き合わせる中年の夫婦、ザックに頭をあずける読書中の青年、騒がしい様子の伝わってくる裸足の幼児、それらがうねうねと意味深な梵字のように芝生を流れるサクシュコトニ川のほとりで、各々の時を過ごしていた。

 

南門を出たところに小ぢんまりとしたタイ料理の店がある。これまでに何度か足を運んだときは満席だったから、せっかちな僕はすぐ近くの蕎麦屋で昼食を済ませたが、今日はがらんとしていた。というのもランチタイムなどとうに過ぎていたからで、いそいそとガパオライスを注文し席に着いた。

 

程なくしてセットの前菜とハーブティーが卓に並ぶ。茶は主張控えめなジャスミンティーのような、曖昧な、よく冷えたものだったが、小鉢の方は韓国料理のナムルのような細く切った大根と、一口大の薄く削がれた砂肝の和え物で、酸味と魚醤のくさみが特徴的な一皿である。結構悪くない味で、乳酸発酵にも似た強い旨みがそれらを立たせ、時おり歯で弾けるクミンシードの清涼感ある風味が全体をサッパリとまとめる、どうすると暑くて疲労を感じる残暑にあっては、なかなか適した料理に思える。

 

チマチマと先まで太さの変わらぬ箸で摘まみながら、行儀の悪いことに文庫を開いて待つ。日に焼けたシンハー・ビールの広告が目に付くも、まだまだ研究室での作業に終わりは見えておらず、断腸の思いで大人しくガパオライスの出来上がりを待っていた。

 

矢鱈と柄の短い、うすい金属を打ち出したレンゲがこんもりと盛られた飯の横に添えられて、ガパオライスが出てきた。油で揚げ焼きにされた目玉焼きは縁が反り返り、茶色いおコゲがぐるっと一周まわっている見た目にも美味しそうなもので、肝心のガパオの方はホーリーバジルの香りの無い、些かジャパンナイズドされた賽の目切り鶏肉とピーマンの炒め物といった風だったけれど、目玉焼きを突き崩してご飯ごと口に運べば、強い塩分が卵黄、ナンプラーのコクと一緒に舌に乗る。暑い国で露店の並びを歩いた時の熱気、人も畜生も区別がない雑多な国の味がした。

 

薄い金属製のレンゲはカリカリと焼けた卵を切るのと、ぐちゃぐちゃと全部をかき混ぜたガパオライスを匙いっぱい口までもっていくのにちょうどよいのかなあ、とか考えながら、暑い国のことに思いを馳せながら食べた。なんだか予断を許さないどころか益々締め付けが厳しくなっていく一方の毎日だけれど、たまにはこうしてボケーっと飯を食って、いつか行くのかもしれないし行かないのかも知れない、暑い国を曖昧に慕いながら昼下がりを過ごすのも悪くないなと思った。大きな氷がコロンと入ったハーブティーが沢山汗を搔いていた。一息に飲み干して、短パンの裾で手を拭った。

 

外に出ると重そうな雲が空のあちこちにちぎれていた。こりゃ雨か知らんとペダルに置いた足に力を込めて、構内に戻った。川のほとりでは、相も変わらず幼児が水遊びに興じていた。あの子の目には、巨大なゾウと身を清める、袈裟を着た僧侶でも見えているのだろうか。いや、ないか。

 

おわり