3/8の日記だよもん

シンエヴァを観てきた。ラストシーンを観て「ああ、庵野秀明は現実の女を知ったのだ」と思った。以下、くだくだしい妄想力の切り出し。

 

女と交際したことのないガキんちょには、昔から自分を育ててきた母親から経験的に得る母としての女、ムフフなビデオやH本に見る性の権化的情婦としての女が統合されておらず、相反する性質を備えた女に対してバラバラでちぐはぐな認識しかない。女の人と交際することで、その愛情を注いでくれる彼女が、自分の腕に抱かれる柔らかな肉欲的な彼女と同一のものであることに気付く。

僕のなかでTVアニメと旧劇を総合して思うのは、相手に惜しみなく注がれる献身的な愛、母なるそれを表すレイ、性的な欲情を掻き立てる、異性に向ける情欲を表すアスカ。で歪な女性経験(恋愛)で統合を図り上手くいかなかった愛の現実としてのミサトさん、ぐらいの役の振り分けだ。庵野監督自身のことを書いてるらしい(ソース不明)エヴァだから、まあイロイロ上手くいってないんだろうなあとかさ。新劇を観て思うのは、なんつうかそれらとの決別?みたいなかたちで序の序盤から否応なしにあてがわれるミサトさん、以降徐々に愛情を露わにするレイ、さらにアスカ、破の最後ニアサードでミサトさんの生きなさい!でそれらからの解放!庵野監督も恋愛して結婚した、過去の自分にケリをつける意味でのQが来るんだと破を観た当時の僕はボンヤリ思った。どうでもいいけど、僕はアスカが好きだよみたいなことをブツブツ訊いてきたおじさんは元気かなあ。マリは安野モヨコがモデルだって話は昔からあって、ぼくも上に書いたような見方でいるから概ね同意するのだけれど、そうしてみると、なんだか納得して観ることが出来る気がする。等身大の現実の女の人と恋愛をすることで、好きな相手に向ける無償の奉仕的な愛と、直情的でときたま冷酷な(女の人は、男なんかよりはるかにリアリストだと思う)、動物的熱情の同居をそこに見る。庵野監督にそれを教えたのは安野モヨコなんだという具合に。こうして並べると、レイは処女性を示す聖母マリア、アスカは女の人の抱える暗さの象徴たるイブという、聖書で180°真逆の存在である二人の女性を透かして見えたキャラクターなんじゃないかなあと妄想が膨らんだり。シンでアスカがガキにはママが必要なのよと言っていたのとか、レイの慈愛ある行動とかさ…膨らむ、。でも二人とも髪は伸びるから人間らしい。聖母マリア聖母マリアも、あまりに大きな運命を背負った、どこにでもいる女の人に過ぎない。)だってイブだって人間さ。

マリはマリアだ。冬月副指令も「イスカリオテのマリア」と言っていたけれど、それは彼女たちにとってのマリが聖母マリアでないことを皮肉っただけで、イスカリオテはあまり気にする必要はない(僕は気にしない)。マリはマグダラのマリアだ。聖書に書かれるマグダラのマリアは闇から光、正から悪まで経験した、聖母マリアとイブの間を彷徨ったまさしく人間的な女だ。すべての女の人には純潔と暗い闇の部分がないまぜになっている。ワンコくんを見つけ出すと言ったり手助けしたり、かといって会えば冗談を言って場を騒がしくしたり、ほらマリって人間臭いじゃん?嘘つくし裏切るし。つーかミサトさんってシンジを見つけ出すとか助けるとか全然言わねえ。面倒なので出自は書かないが、性急で熱情的で、相当にふしだらな生活を送ったのちイエスと出会い心を満たされイエスに真っすぐに着いていったマグダラのマリアをぼくはマリ、そして安野モヨコに重ねてしまう。庵野監督は自分のなかで肥大していった女性に対する見方を現実の女性(マリ)に解きほぐしてもらった。話(聖書)のなかにしかいないレイやアスカ(聖母マリアやイブ)ではなく、もっとも人間的で、どこにでもいる現実の女性の写し姿であるマリがシンジと終劇を迎えるのは、エヴァ庵野監督の自意識の物語として読めば、ぼくは凄いハッピーエンドのように思えるのだ。よかったね、庵野監督、なんて上から目線で付け加えたくなるほど。

 

こんなん感想です。