10/28の日記だよもん
先日 DC2 に採択された.去年の DC1 は全く犬も食わない結果となったので,今回の採択には心底安堵させられた.少しは理系の研究者らしくなってきたのではないかと肯定的に捉える心がそれなりにある.
しかし悲しいかな,大学(学部)に入学してからというもの,僕の日本語力とでも言うべきつらつらと言葉を重ねる能力もとい悪癖は失せ始め,しかも研究活動開始以後加速度的に失われつつある.僕のなかでそれは自分のよって立つところであったし,気恥ずかしくもそのようにして産み落とされた散文に愛着を持っていたから,大変に悲しい自覚がある.ラカンを読みつつ,文学的妄想力に満ちた駄文を書き散らしていた浪人当時の僕の魂は今どこを漂っているのだろうか? 全く浄化されたとは思えない.さりとて,自分の身近にいるとも思えない.
初めて学会発表の要旨を指導教官ちゃんに添削してもらったときには,あまりに多い赤色フォントによる指摘に眩暈を覚えると同時に目の覚めるような思いをしたものだ.オレは文章を書くことが苦手だったのだろうか!? その鮮烈な修正事項を目に焼き付け,少しでもマクロ生物学分野で認められる文を書こうと思った瞬間から,僕は衒学趣味の濃霧から解放されたがっていたと言えるのかな.ここまで来てみれば,と云っても高々D1であるものの,画然たる意志を持たずともゆるやかに文章の調子を変えていけたのではないかと評することができるけれど,当時の僕は明確に自分の文章を否定したかったらしい.そして,早く自分の目標とするマクロ生物学の共同体(この言葉はあまり好きではないが),そのパラダイムに参与したかったのだ.言わずもがな,パラダイムを認識し,その身に浸潤させようとすること自体の不自然さに僕は悶えていた.かくして自明性(Selbstverstandlichkeit)に満ちた科学コミュニティの共同性への参与は,僕に心の軋轢から来る一種の諦念を備えさせ,哀れにも「魂」は擦り切れ霧散したのだろうと自身をなだめるまでに至っていた.
ところがどうだろう,学振特別研究員として採択され,つまりマクロ生物学において予め構成された相互主観性に自身の幾らかを組み込むことに成功したと評して差支えないであろう今,僕は嘗ての魂の幽かなる慟哭に耳をそばだてる余裕が出来てきたし,実際にその不憫な魂をどうにか成仏させてあげたいと願い始めた.これから先,僕はどんな文章を書くのかな.まだ分からないにせよ一つ言えるのは,その行為自体が自分にとっては彷徨える魂への信号であり,送り火であるということだ.
……とここまで書いてきたが実のところ,今回の学振の申請書も文章が難しい,と添削していただいた先生からは言われている.亡くしたはずの魂はまだ自身に沁みついていたかな.もしそうであるならば喜ばしい限りだが,反対にどうしようもなくやるせない気持ちが襲ってくる.分野のお作法という点では驚くほどの抑圧的概念として作用する共同性に僕の魂を溶かしてしまったことは,もはや僕自身でそれを認識することが叶わなくなっていることを意味する.僕の嘗ての魂の輪郭がどこにあるのか? かつては目映い赤い文字として痛いほど認識させられた共同体の輪郭は,今その内部にある僕にとっては知覚できないものとなった.
不相変ウィトゲンシュタインの論考を三杯酢で薄めたような文章を書ける自分に驚いたんだよね.
氷雨降りやまぬ窓外に目を遣りつつ,
だよもん
P.S. 随分お世話になった先生が鬼籍に入られた.先生が最後に添削していただいた申請書は学振に通りましたよ.そして,最後に添削していただいた論文は受理されましたよ.冥土の土産話にしてくださいね.どうか安らかに.
去年観た映画の話だよもん
アデュー・フィリピーヌ観ましたよ.ラストシーンで女の子二人が波止場を走りつづけ,いつまでも船を見送るところ,あれ泣けました.文句なしでオールタイムベストに入る作品でした.
9/29の日記だよもん
DC1 に落ちた.少し自信があっただけに,全く犬も食わない結果となり消沈している.大学受験で落ちたときよりかは真面目にやってきたので,不採択の不甲斐なさがひとしお身に沁みる.普段好き放題させてくれている,しどーきょうかんちゃんには,本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである.
以下に記すは,およそ6年前(!)浪人を始めた当時の自分の文章である.HDD から引っ張り出してきた.それを読むに,研究もまた,おれの因果ではなかったということです.だから今後は気楽に,でもガツンといきますよ.Be desperate and carry out a duty. Do your best as long as there is a life. Never die in vain. ですよ,プロデューサーさん.
──
それでも紅茶は飲めるし外は明るい
TLを追う日々から解放されたことを嬉しく思う。ストレスを排泄するように呟くなかでまたストレッサーが見つかる、堂々巡りってやつ。
ここのところ家に引き込もっていた。お前は塾に行かずに遊ぶから、と母が言うから。悲しいけども正論だ。自分はどうしてか大事なこと、辛いことから逃げ出してしまう癖があるらしい。色々理由はあるんだろうけど、こいつ努力して何か大きいものを得た経験がないんだろうな、なんていやに他人じみた感想を抱いてしまう。
まあ大方その通りなわけであって、小学生のときに立ち返ってみるとヤなガキなんだよな。どこへ行っても神童扱いでさぞかし気持ちよかっただろう、クソガキ?中学に入ればもっと拍車がかかってきて、ハイ天才天才おめでとう。
でもさ、多分それってぼくの力じゃないんだよね。親がぼくが乳吸ってバブバブ言ってる時分に叩き込んだ教育の成果(成果?知らんけど)であってぼく個人の力ではない。美男美女も同じだよ?そりゃ維持だとかなんだとか抜かすけど、そんなもん男が女のなかで気持ちよくなった数秒の成果じゃん(これは成果?)。多少卵子が綺麗に先体反応起こしたんだろ。そうじゃない人は親が手抜いてセックスしたんだ。
話がそれたけどようは親のせいって言ってるんだ。親の力で全てが決まる。
受精卵から立って歩けるようになるまでに全てが決まるんだ。あとは何しても無駄。因果律は不変だしアカシックレコード見に行けばいいんじゃないかな。
それで話はここからなんだけど、一日中ひねもすのたりのたりかなでTwitterしゅぽしゅぽしながら金属ガンガンして思ってもなかったことに気づいたわけよ。
確かにぼくは反町隆史にはなれないし天木じゅんの胸も揉めないわけ。自明だよね?それは多分ぼくの因果じゃないわけだ。
じゃあぼくの因果っていったい何? 頭いいからいい大学行くこと? それが違ってさ、僕の因果ってそこじゃないんだわ。それがぼくの因果なら現役で東大行ってますから。そもそもXXXXX(※公開にあたり伏字に変更)なんて猿とメンヘラがうじゃうじゃいる地方公立校にいないわけであって。
浪人生になったことで自分の人生は勉強じゃなかった、ということがわかったんだね。うれしかったなぁ。自分の因果がまだ何かあるということだし、ぼくの受験は、世界にとっては無関心だということに他ならない。自分が獲得した力で自由に未来も選択できるってことなんだ。自らの手で大学に進もうじゃないか。
ここであれ?ってなるんだけど、おそらく親が自分に授けたものは勉強をすることで、それが因果だとばかり思っていたがきっと違ったんだね。勉強だけじゃなかったはずだ。貰ったものは。
親と話すことなんてないとたかをくくっていたが事実ワカランことがあったから聞いてみましょうか。でも親がそれをぼくに伝えたことも因果なわけだし、それこそイケメンとかチンコがデカいとか表出してること以外は知らないよね。
だってアカシックレコードは読めないから。
とりあえず日があるうちに紅茶でも淹れて今後の進退でも親に話そう。
そういえば紅茶、切らしていたか。まだ空が明るいのはぼくに買いに行けってことなのかもしれない。こいつが因果の人生、上出来だ。
──
こっから投稿論文書いて,修論仕上げて,頼まれものの原稿書いて,申請書改稿して,そんで博士課程突入します.なんとかなるよ.絶対だいじょうぶだよ.
日付が変わったばかりの,深夜の研究室にて だよもん
飲み会中、急に冷静になる
僕は日本の北国で大学生活を送る理系の青年である.多分にペダンチックなところのある,文系チックな──言葉通りではなく,スノッブ気取りの駄目学生の意──自意識で生まれてこのかた暮らしてきたが,早いもので大学入学から数えて4年が過ぎ,現在卒業研究,卒論論文,それらの発表とあわただしい年度末を,些かの反骨もなく過ごすほどに真っ当な精神に成長していた.
ただまあしかし,気になるところに嫌味なほど執着する性質は全くといっていいほど変わっておらず,それで表題のとおり飲み会の話になるのだが,「少女終末旅行っていいよね」という中年でアニメを見始めた准教授の無教養そうな感想に眉をひそめてしまうのであった.というのもオレの言いたいことは,ひとこと「『渚にて』でも読んでタヒね莫迦」に尽きるのである.
要するに,アニメひいては二次元文化というのは元ネタに次ぐ元ネタで,必ず参考作品となるものがありその問題意識およびに中核を成す物語(オレは物語という語が嫌いだが説話論的なものと対置するためにそう呼ばせてもらう)がある.そーいうことを知ってか知らずか,件の莫迦のように昨今の二次文化に集う痴呆はおしなべてその物語を褒めるものだから,俺としては 【悪霊】アニメオタク【退散】 みたいに脳内身構えてしまうのだ.スレ立て乙.
だから俺としては「『渚にて』がサァ! 『The Hollow Men』がサァ!!」というところから話を始めて「少女終末旅行」と「がっこうぐらし!」から見る「終末の過ごし方」の時代性の話がしたかった.つまるところエロゲーオタクってわけだ.札幌だし.
おわり.
タイ料理屋にいったわよ
題の通りタイ料理屋に行きましたよ。
涼しい涼しいと言われる当地ながら、今年は別段涼しいわけでもなかった。寧ろ暑いとまで言われるような始末だったけれど、それでも漸く落ち着いて夜ごとに風が流れるような穏やかな夏の終わりが訪れていた。研究室の小さな窓から覗く四角い空が、少しばかり遠くなった。
そうは言っても昼間に気温はぐんぐん上がり、薄いスープのような汗をかきながらべとつくシャツを胸からはがして自転車にまたがった。走りだせば全身に風を受け止めて、ヤアいい気分だとゆるやかな坂道を漕ぐ。オレンジ色の木漏れ日が眩しい。構内を流れる小川には、枝垂れ柳越しに色んな人が見えた。少し照れくさそうに膝を突き合わせる中年の夫婦、ザックに頭をあずける読書中の青年、騒がしい様子の伝わってくる裸足の幼児、それらがうねうねと意味深な梵字のように芝生を流れるサクシュコトニ川のほとりで、各々の時を過ごしていた。
南門を出たところに小ぢんまりとしたタイ料理の店がある。これまでに何度か足を運んだときは満席だったから、せっかちな僕はすぐ近くの蕎麦屋で昼食を済ませたが、今日はがらんとしていた。というのもランチタイムなどとうに過ぎていたからで、いそいそとガパオライスを注文し席に着いた。
程なくしてセットの前菜とハーブティーが卓に並ぶ。茶は主張控えめなジャスミンティーのような、曖昧な、よく冷えたものだったが、小鉢の方は韓国料理のナムルのような細く切った大根と、一口大の薄く削がれた砂肝の和え物で、酸味と魚醤のくさみが特徴的な一皿である。結構悪くない味で、乳酸発酵にも似た強い旨みがそれらを立たせ、時おり歯で弾けるクミンシードの清涼感ある風味が全体をサッパリとまとめる、どうすると暑くて疲労を感じる残暑にあっては、なかなか適した料理に思える。
チマチマと先まで太さの変わらぬ箸で摘まみながら、行儀の悪いことに文庫を開いて待つ。日に焼けたシンハー・ビールの広告が目に付くも、まだまだ研究室での作業に終わりは見えておらず、断腸の思いで大人しくガパオライスの出来上がりを待っていた。
矢鱈と柄の短い、うすい金属を打ち出したレンゲがこんもりと盛られた飯の横に添えられて、ガパオライスが出てきた。油で揚げ焼きにされた目玉焼きは縁が反り返り、茶色いおコゲがぐるっと一周まわっている見た目にも美味しそうなもので、肝心のガパオの方はホーリーバジルの香りの無い、些かジャパンナイズドされた賽の目切り鶏肉とピーマンの炒め物といった風だったけれど、目玉焼きを突き崩してご飯ごと口に運べば、強い塩分が卵黄、ナンプラーのコクと一緒に舌に乗る。暑い国で露店の並びを歩いた時の熱気、人も畜生も区別がない雑多な国の味がした。
薄い金属製のレンゲはカリカリと焼けた卵を切るのと、ぐちゃぐちゃと全部をかき混ぜたガパオライスを匙いっぱい口までもっていくのにちょうどよいのかなあ、とか考えながら、暑い国のことに思いを馳せながら食べた。なんだか予断を許さないどころか益々締め付けが厳しくなっていく一方の毎日だけれど、たまにはこうしてボケーっと飯を食って、いつか行くのかもしれないし行かないのかも知れない、暑い国を曖昧に慕いながら昼下がりを過ごすのも悪くないなと思った。大きな氷がコロンと入ったハーブティーが沢山汗を搔いていた。一息に飲み干して、短パンの裾で手を拭った。
外に出ると重そうな雲が空のあちこちにちぎれていた。こりゃ雨か知らんとペダルに置いた足に力を込めて、構内に戻った。川のほとりでは、相も変わらず幼児が水遊びに興じていた。あの子の目には、巨大なゾウと身を清める、袈裟を着た僧侶でも見えているのだろうか。いや、ないか。
おわり
3/9の日記だよもん
エヴァの感想とかそういうクサいの書くのは卒業したと思っていたが、どうやらまだまだで。もやもやしたままバイト、もやもやして結局深夜に書き始めてしまった。
俺はある女の人に人間的な女性のそれを教えてもらった。それ、格好つけて思い出さないようにしていたらほとんど忘れた。今はまたオタクに後退したけど、なんとなくそういうものを思い出した。
3/8の日記だよもん
シンエヴァを観てきた。ラストシーンを観て「ああ、庵野秀明は現実の女を知ったのだ」と思った。以下、くだくだしい妄想力の切り出し。
女と交際したことのないガキんちょには、昔から自分を育ててきた母親から経験的に得る母としての女、ムフフなビデオやH本に見る性の権化的情婦としての女が統合されておらず、相反する性質を備えた女に対してバラバラでちぐはぐな認識しかない。女の人と交際することで、その愛情を注いでくれる彼女が、自分の腕に抱かれる柔らかな肉欲的な彼女と同一のものであることに気付く。
僕のなかでTVアニメと旧劇を総合して思うのは、相手に惜しみなく注がれる献身的な愛、母なるそれを表すレイ、性的な欲情を掻き立てる、異性に向ける情欲を表すアスカ。で歪な女性経験(恋愛)で統合を図り上手くいかなかった愛の現実としてのミサトさん、ぐらいの役の振り分けだ。庵野監督自身のことを書いてるらしい(ソース不明)エヴァだから、まあイロイロ上手くいってないんだろうなあとかさ。新劇を観て思うのは、なんつうかそれらとの決別?みたいなかたちで序の序盤から否応なしにあてがわれるミサトさん、以降徐々に愛情を露わにするレイ、さらにアスカ、破の最後ニアサードでミサトさんの生きなさい!でそれらからの解放!庵野監督も恋愛して結婚した、過去の自分にケリをつける意味でのQが来るんだと破を観た当時の僕はボンヤリ思った。どうでもいいけど、僕はアスカが好きだよみたいなことをブツブツ訊いてきたおじさんは元気かなあ。マリは安野モヨコがモデルだって話は昔からあって、ぼくも上に書いたような見方でいるから概ね同意するのだけれど、そうしてみると、なんだか納得して観ることが出来る気がする。等身大の現実の女の人と恋愛をすることで、好きな相手に向ける無償の奉仕的な愛と、直情的でときたま冷酷な(女の人は、男なんかよりはるかにリアリストだと思う)、動物的熱情の同居をそこに見る。庵野監督にそれを教えたのは安野モヨコなんだという具合に。こうして並べると、レイは処女性を示す聖母マリア、アスカは女の人の抱える暗さの象徴たるイブという、聖書で180°真逆の存在である二人の女性を透かして見えたキャラクターなんじゃないかなあと妄想が膨らんだり。シンでアスカがガキにはママが必要なのよと言っていたのとか、レイの慈愛ある行動とかさ…膨らむ、。でも二人とも髪は伸びるから人間らしい。聖母マリア(聖母マリアも、あまりに大きな運命を背負った、どこにでもいる女の人に過ぎない。)だってイブだって人間さ。
マリはマリアだ。冬月副指令も「イスカリオテのマリア」と言っていたけれど、それは彼女たちにとってのマリが聖母マリアでないことを皮肉っただけで、イスカリオテはあまり気にする必要はない(僕は気にしない)。マリはマグダラのマリアだ。聖書に書かれるマグダラのマリアは闇から光、正から悪まで経験した、聖母マリアとイブの間を彷徨ったまさしく人間的な女だ。すべての女の人には純潔と暗い闇の部分がないまぜになっている。ワンコくんを見つけ出すと言ったり手助けしたり、かといって会えば冗談を言って場を騒がしくしたり、ほらマリって人間臭いじゃん?嘘つくし裏切るし。つーかミサトさんってシンジを見つけ出すとか助けるとか全然言わねえ。面倒なので出自は書かないが、性急で熱情的で、相当にふしだらな生活を送ったのちイエスと出会い心を満たされイエスに真っすぐに着いていったマグダラのマリアをぼくはマリ、そして安野モヨコに重ねてしまう。庵野監督は自分のなかで肥大していった女性に対する見方を現実の女性(マリ)に解きほぐしてもらった。話(聖書)のなかにしかいないレイやアスカ(聖母マリアやイブ)ではなく、もっとも人間的で、どこにでもいる現実の女性の写し姿であるマリがシンジと終劇を迎えるのは、エヴァを庵野監督の自意識の物語として読めば、ぼくは凄いハッピーエンドのように思えるのだ。よかったね、庵野監督、なんて上から目線で付け加えたくなるほど。
こんなん感想です。