飲み会中、急に冷静になる

僕は日本の北国で大学生活を送る理系の青年である.多分にペダンチックなところのある,文系チックな──言葉通りではなく,スノッブ気取りの駄目学生の意──自意識で生まれてこのかた暮らしてきたが,早いもので大学入学から数えて4年が過ぎ,現在卒業研究,卒論論文,それらの発表とあわただしい年度末を,些かの反骨もなく過ごすほどに真っ当な精神に成長していた.

 

ただまあしかし,気になるところに嫌味なほど執着する性質は全くといっていいほど変わっておらず,それで表題のとおり飲み会の話になるのだが,「少女終末旅行っていいよね」という中年でアニメを見始めた准教授の無教養そうな感想に眉をひそめてしまうのであった.というのもオレの言いたいことは,ひとこと「『渚にて』でも読んでタヒね莫迦」に尽きるのである.

 

要するに,アニメひいては二次元文化というのは元ネタに次ぐ元ネタで,必ず参考作品となるものがありその問題意識およびに中核を成す物語(オレは物語という語が嫌いだが説話論的なものと対置するためにそう呼ばせてもらう)がある.そーいうことを知ってか知らずか,件の莫迦のように昨今の二次文化に集う痴呆はおしなべてその物語を褒めるものだから,俺としては 【悪霊】アニメオタク【退散】 みたいに脳内身構えてしまうのだ.スレ立て乙.

 

だから俺としては「『渚にて』がサァ! 『The Hollow Men』がサァ!!」というところから話を始めて「少女終末旅行」と「がっこうぐらし!」から見る「終末の過ごし方」の時代性の話がしたかった.つまるところエロゲーオタクってわけだ.札幌だし.

 

おわり.

タイ料理屋にいったわよ

題の通りタイ料理屋に行きましたよ。

 

涼しい涼しいと言われる当地ながら、今年は別段涼しいわけでもなかった。寧ろ暑いとまで言われるような始末だったけれど、それでも漸く落ち着いて夜ごとに風が流れるような穏やかな夏の終わりが訪れていた。研究室の小さな窓から覗く四角い空が、少しばかり遠くなった。

 

そうは言っても昼間に気温はぐんぐん上がり、薄いスープのような汗をかきながらべとつくシャツを胸からはがして自転車にまたがった。走りだせば全身に風を受け止めて、ヤアいい気分だとゆるやかな坂道を漕ぐ。オレンジ色の木漏れ日が眩しい。構内を流れる小川には、枝垂れ柳越しに色んな人が見えた。少し照れくさそうに膝を突き合わせる中年の夫婦、ザックに頭をあずける読書中の青年、騒がしい様子の伝わってくる裸足の幼児、それらがうねうねと意味深な梵字のように芝生を流れるサクシュコトニ川のほとりで、各々の時を過ごしていた。

 

南門を出たところに小ぢんまりとしたタイ料理の店がある。これまでに何度か足を運んだときは満席だったから、せっかちな僕はすぐ近くの蕎麦屋で昼食を済ませたが、今日はがらんとしていた。というのもランチタイムなどとうに過ぎていたからで、いそいそとガパオライスを注文し席に着いた。

 

程なくしてセットの前菜とハーブティーが卓に並ぶ。茶は主張控えめなジャスミンティーのような、曖昧な、よく冷えたものだったが、小鉢の方は韓国料理のナムルのような細く切った大根と、一口大の薄く削がれた砂肝の和え物で、酸味と魚醤のくさみが特徴的な一皿である。結構悪くない味で、乳酸発酵にも似た強い旨みがそれらを立たせ、時おり歯で弾けるクミンシードの清涼感ある風味が全体をサッパリとまとめる、どうすると暑くて疲労を感じる残暑にあっては、なかなか適した料理に思える。

 

チマチマと先まで太さの変わらぬ箸で摘まみながら、行儀の悪いことに文庫を開いて待つ。日に焼けたシンハー・ビールの広告が目に付くも、まだまだ研究室での作業に終わりは見えておらず、断腸の思いで大人しくガパオライスの出来上がりを待っていた。

 

矢鱈と柄の短い、うすい金属を打ち出したレンゲがこんもりと盛られた飯の横に添えられて、ガパオライスが出てきた。油で揚げ焼きにされた目玉焼きは縁が反り返り、茶色いおコゲがぐるっと一周まわっている見た目にも美味しそうなもので、肝心のガパオの方はホーリーバジルの香りの無い、些かジャパンナイズドされた賽の目切り鶏肉とピーマンの炒め物といった風だったけれど、目玉焼きを突き崩してご飯ごと口に運べば、強い塩分が卵黄、ナンプラーのコクと一緒に舌に乗る。暑い国で露店の並びを歩いた時の熱気、人も畜生も区別がない雑多な国の味がした。

 

薄い金属製のレンゲはカリカリと焼けた卵を切るのと、ぐちゃぐちゃと全部をかき混ぜたガパオライスを匙いっぱい口までもっていくのにちょうどよいのかなあ、とか考えながら、暑い国のことに思いを馳せながら食べた。なんだか予断を許さないどころか益々締め付けが厳しくなっていく一方の毎日だけれど、たまにはこうしてボケーっと飯を食って、いつか行くのかもしれないし行かないのかも知れない、暑い国を曖昧に慕いながら昼下がりを過ごすのも悪くないなと思った。大きな氷がコロンと入ったハーブティーが沢山汗を搔いていた。一息に飲み干して、短パンの裾で手を拭った。

 

外に出ると重そうな雲が空のあちこちにちぎれていた。こりゃ雨か知らんとペダルに置いた足に力を込めて、構内に戻った。川のほとりでは、相も変わらず幼児が水遊びに興じていた。あの子の目には、巨大なゾウと身を清める、袈裟を着た僧侶でも見えているのだろうか。いや、ないか。

 

おわり

3/9の日記だよもん

エヴァの感想とかそういうクサいの書くのは卒業したと思っていたが、どうやらまだまだで。もやもやしたままバイト、もやもやして結局深夜に書き始めてしまった。

俺はある女の人に人間的な女性のそれを教えてもらった。それ、格好つけて思い出さないようにしていたらほとんど忘れた。今はまたオタクに後退したけど、なんとなくそういうものを思い出した。

3/8の日記だよもん

シンエヴァを観てきた。ラストシーンを観て「ああ、庵野秀明は現実の女を知ったのだ」と思った。以下、くだくだしい妄想力の切り出し。

 

女と交際したことのないガキんちょには、昔から自分を育ててきた母親から経験的に得る母としての女、ムフフなビデオやH本に見る性の権化的情婦としての女が統合されておらず、相反する性質を備えた女に対してバラバラでちぐはぐな認識しかない。女の人と交際することで、その愛情を注いでくれる彼女が、自分の腕に抱かれる柔らかな肉欲的な彼女と同一のものであることに気付く。

僕のなかでTVアニメと旧劇を総合して思うのは、相手に惜しみなく注がれる献身的な愛、母なるそれを表すレイ、性的な欲情を掻き立てる、異性に向ける情欲を表すアスカ。で歪な女性経験(恋愛)で統合を図り上手くいかなかった愛の現実としてのミサトさん、ぐらいの役の振り分けだ。庵野監督自身のことを書いてるらしい(ソース不明)エヴァだから、まあイロイロ上手くいってないんだろうなあとかさ。新劇を観て思うのは、なんつうかそれらとの決別?みたいなかたちで序の序盤から否応なしにあてがわれるミサトさん、以降徐々に愛情を露わにするレイ、さらにアスカ、破の最後ニアサードでミサトさんの生きなさい!でそれらからの解放!庵野監督も恋愛して結婚した、過去の自分にケリをつける意味でのQが来るんだと破を観た当時の僕はボンヤリ思った。どうでもいいけど、僕はアスカが好きだよみたいなことをブツブツ訊いてきたおじさんは元気かなあ。マリは安野モヨコがモデルだって話は昔からあって、ぼくも上に書いたような見方でいるから概ね同意するのだけれど、そうしてみると、なんだか納得して観ることが出来る気がする。等身大の現実の女の人と恋愛をすることで、好きな相手に向ける無償の奉仕的な愛と、直情的でときたま冷酷な(女の人は、男なんかよりはるかにリアリストだと思う)、動物的熱情の同居をそこに見る。庵野監督にそれを教えたのは安野モヨコなんだという具合に。こうして並べると、レイは処女性を示す聖母マリア、アスカは女の人の抱える暗さの象徴たるイブという、聖書で180°真逆の存在である二人の女性を透かして見えたキャラクターなんじゃないかなあと妄想が膨らんだり。シンでアスカがガキにはママが必要なのよと言っていたのとか、レイの慈愛ある行動とかさ…膨らむ、。でも二人とも髪は伸びるから人間らしい。聖母マリア聖母マリアも、あまりに大きな運命を背負った、どこにでもいる女の人に過ぎない。)だってイブだって人間さ。

マリはマリアだ。冬月副指令も「イスカリオテのマリア」と言っていたけれど、それは彼女たちにとってのマリが聖母マリアでないことを皮肉っただけで、イスカリオテはあまり気にする必要はない(僕は気にしない)。マリはマグダラのマリアだ。聖書に書かれるマグダラのマリアは闇から光、正から悪まで経験した、聖母マリアとイブの間を彷徨ったまさしく人間的な女だ。すべての女の人には純潔と暗い闇の部分がないまぜになっている。ワンコくんを見つけ出すと言ったり手助けしたり、かといって会えば冗談を言って場を騒がしくしたり、ほらマリって人間臭いじゃん?嘘つくし裏切るし。つーかミサトさんってシンジを見つけ出すとか助けるとか全然言わねえ。面倒なので出自は書かないが、性急で熱情的で、相当にふしだらな生活を送ったのちイエスと出会い心を満たされイエスに真っすぐに着いていったマグダラのマリアをぼくはマリ、そして安野モヨコに重ねてしまう。庵野監督は自分のなかで肥大していった女性に対する見方を現実の女性(マリ)に解きほぐしてもらった。話(聖書)のなかにしかいないレイやアスカ(聖母マリアやイブ)ではなく、もっとも人間的で、どこにでもいる現実の女性の写し姿であるマリがシンジと終劇を迎えるのは、エヴァ庵野監督の自意識の物語として読めば、ぼくは凄いハッピーエンドのように思えるのだ。よかったね、庵野監督、なんて上から目線で付け加えたくなるほど。

 

こんなん感想です。

2/25の日記だよもん

 素人に天ぷらは難しいので(特に魚、肉)、天ぷら粉だとかビールでさっくり混ぜるとか間怠こい彼是は抜きにして、ただ片栗粉をまぶして揚げればよいと思ったのは昨日ビールを飲み飲み、クールなシベリアの虫たちを眺めながらのことであったが、それにしても釣りが上手なやつは何故か狙う魚種に拘わらず次々スッパ抜いていくから大したもんだと思った。 <何のことやら

───────────────────────

 最近はどうも部屋が汚いのが気になるので、というのも俺は別にイクラ部屋が散らかろうがお構いなしで汚部屋はサケられないともう諦観の域に達していおり、雑然とした部屋それ自体は何ら問題は無いのだけれど、しかしイクラ害虫の類の少ない土地と言えども余りに汚くすればカツオブシムシの発生はサケ <しつこいか ては通れぬ道であり、乾燥中の標本が被害を受けるやもしれぬとの危惧を抱いた次第で、まあ後はいそいそとベッドと壁の間、余分なカーペットの端をくるりと巻いて「どうせベッドで隠れて見えないさね」と入居時横着に解決もとい放置した問題のそこを覗いてみればやんぬるかな、既に二頭のカツオブシムシ幼虫がのさばっていて俺は手先の冷たくなる感覚を明瞭に覚えたものだが、しかしそうは言っても面倒くさがりの俺が今まで半年以上掃除を怠っていたくせして急にやる気を見せた理由はそもそも以前某売って買えちゃう萌えのコンビニで300円払って手に入れた「瑠璃色の雪」win版を先日ヒマだしプレイすっかと開けるに何と一頭のカツオ(ry 、っつうわけなので殊更驚いたりはしないのだが。

 「瑠璃色の月」は良いですよ。いや5年以上やっていないので詳細には語れないものの、メインヒロインに手を出すとハッピーエンドに行けないみたいな仕様(それは「まじかる☆あんてぃーく」だっけか?)だったりHシーンで眼鏡の着脱を選べたりと制作者の心底どうでもいいシットな趣味が反映された佳作です。それも虫が食い入るくらいのね、部屋にカツオブシムシ持ち込んだのぜってえコイツだろ。

 で部屋の掃除なんだけど俺は買ってきた本のカバーを剥くとそこら辺に投げて読み出すという悪癖があって、おかげで部屋中にカバーひん剥かれた本と無残に打ち捨てられたカバーが散乱しているのだけれど、さらなる問題が待っていてその上に他のごみやらなんやらを放りまくるためにカバーも本も埋もれてしまう、すると二つ「カバーの丸い背の部分がゴミの上からそうと気づかぬままに踏まれ折り筋が入ってしまう」、「大抵の本に就て部屋から探すより買うほうが早いとなり、若しくは買った本か借りた本か記憶が曖昧になるも現物がとりあえず手元に欲しいとなり同じ本を複数購入してしまう」という余りに悲しい出来事が起こる。剰え足の踏み場の見当たらぬゴミ山で先ず行われる本とカバーの神経衰弱はボクのやる気をへし折るに足る苦行であり、然るに今こうやって日記なんぞを付けて早くも休憩している始末。今日は友人に部屋の模様替えを手伝ってもらう予定でいるけれど、どうすんだこれ。

───────────────────────

 一応他人から借りた本は床に置かないようにしているらしい。